Page 1
標準

「ゴーストライター騒動」に寄せて

最近は毎日このニュースでもちきりですね。

僕は以前、佐村河内氏の作品を生で聴いたことがあります。2008年、池袋の芸術劇場で開催された吹奏楽の新作発表会「響宴」で、「吹奏楽のための小品」 という作品が披露された時です。全体的にクラスタートーンが多い楽曲で、「音に圧倒される」という感じがしました(記事によるとあれも新垣作品だったらし い)。


あれは作曲というのか?

「現代典礼」という作品を通して明らかになりましたが、佐村河内氏は、実はスコアライティングもオーケストレーションもできないので、楽曲の構成やダイナ ミクスを細かく書き出した「設計図」とも呼べるようなシートを新垣氏に渡して、それを下地に新垣氏が曲を書き起こし、オーケストレーションしていくという 手法を取っていたことがわかりました。

「そういうことなら新垣氏との『共作』になるんではないか?」という人がいるのですが、僕はあれは作曲とは呼べないと思います。作曲の本質は、メロディー を生み出すことにあると思うからです。そしてそのメロディーを、管弦楽の編成に従って編曲することがオーケストレーションである、ということを考えると、 佐村河内氏は、作曲も編曲もしていなかったことになります。

確かに、あの「設計図」は音楽的な知識や教養がないと書けない内容ではあるんですが、作曲をする人の仕事は、その独創性を音で表現することですから、自分 で一音も書いてないとなると「作曲した」「作曲に携わった」いうのは無理があると思います(ついでに言うと、新垣氏はあのシートに厳密に従って楽曲を作っ たわけでもないようです)。


曲はどうなるの?

「じゃあ『HIROSHIMA』も『ソナチネ』も全部価値ないのか?」っていうとそれは別の話だと思います。少なくとも音楽的に優れていたり、聴きごたえがある部分を持っていたりするのは事実だと思うからです。

佐村河内氏の作品(とされていたもの)は、緻密なオーケストレーションをはじめ高い技術に裏打ちされていたものとして評価されていたわけですが、それを書 いていたのは新垣さんだったのですから、彼の作曲・アレンジメント能力にもっとスポットが当たって、作曲家として活躍し、どんどん素敵な作品を送り出して くださればいいなと思いました。佐村河内作品ももう彼の作品ってことでいいんじゃないでしょうか(もっとも新垣さん本人は「著作権は放棄する」とおっ しゃっているようですが)。

確かに、優れたメロディを生み出すのは簡単ではないです。それに優れたオーケストレーションを施すのはさらに高い技術が必要です。でも作曲家を名乗るな ら、どんなに拙くても、どんな形でもいいから、魂のこもった音符を、自分で書いてほしいなと思うのでありました。それが作曲家の意地とプライドってもん じゃないでしょうか。と、作曲に携わる者として思うのでありました。